僕は、未だ空の青さを知らない

ネット空間の僻地で、生きている事の爪痕的な、僕の独善とした散文を綴る場所

混沌と秩序

 

 世の中の「法」とは、皆が思っている以上に雑な代物だ。

 

 法とは混沌な世の中を整理するために整備されたものだが、ルールの狭い範疇で物事に対すると、歪んだ結末を生む事も起きる。

 万人が認めるような至極真っ当な、法であっても、それは変わらない。

 

 身を守ろうとしてルールを破ったが為に、罰される人がいれば、悪辣にルールを犯し続けても、罰則を逃れる人がいる。
 そしてそれは、百面ダイスで1を引く者と、100の出目を引く者の関係と何ら変わらない。
 一つの法をつくれば、また同じように、混沌の差配によって、幸運不運という差別が生まれる。

 

 現代社会で、神聖視されている『法』と言う物の実態は、イレギュラーは切り捨て、八割は取り合えずうまくいく程度のもの。体裁だけ整えましたとの体でしかない。大きな枠の混沌を、一生懸命に「小さな枠」に分割しているだけと言える。

 残念なことだが、冤罪が起きる度に、異常事態だと騒ぐのはナンセンスだろう。二割の中の最下部には、あって当然の要素だからだ。

 

 更に言えば、その法自体も、急速に変化するテクノロジー、社会情勢に対応できず、新たな混沌に飲まれていく。
 旧態依然とした法と、そこにぶら下がった権益複合体が、抵抗空しく新興勢力にひっくり返されてしまう流れは、現在進行的にも、歴史の中でも何度も起こされてきた。

 

 つまり、秩序などというものは、混沌の下位に付属する。この世の中が混沌の支配下にある事に変わりはなく、法も、世の理の末端に、ちっぽけな人類が背伸びして付け足したに過ぎない。

 

 だが、それでも――、欠陥が多くあろうと、法は必要になる。


 完全に間違いの起きない「複雑で繊細な枠」を制御するには、我々の能力が圧倒的に足りなすぎるからだ。
 だからこそ、法は、我々人間のちっぽけな視野に物事を落とし込むためには必要な、「小さく不完全な枠」と言う意味で有用と言える。


 これからAIが社会の真ん中にくれば、話は変わってくるかもしれないが、我々人類の程度では、すべて大岡裁きのような理想は、ただの理想でしかない。二割がこぼれ落ちようとも、八割が救われる世界で妥協する他ない。

 

 結局、現段階では、法を神聖視するのは愚かと同じ意味で、法を蔑ろにするのも愚かと言うことになる。

 

 法は多くの場合あなたを救うが、時に不条理に攻め立てられる事だろう。

 

 だが、すべては混沌の中にある事を理解できれば、たかが法によって理不尽を押し付けられたとしても、再び立ち上がる強さを手に入れられるかもしれない。