僕は、未だ空の青さを知らない

ネット空間の僻地で、生きている事の爪痕的な、僕の独善とした散文を綴る場所

オッペンハイマーと被爆国と僕弱者

 最近、話題の映画、オッペンハイマーについて、周囲が楽しそうに話しているのを見て、少し違和感を覚えてしまった。

 

 僕も原爆関連の歴史的事実は知っているから、とても興味のある映画で、しかも傑作のお墨付きがある訳で。

 でも、なんだか、傑作だからこそ冷静に見られないような気もする。

 

 きっと、世の中の流れに翻弄される数奇な学者の苦悩が、重厚に描かれているだろうとは思う。それは、きっと人の心を強く揺さぶる。

 でも僕は、その葛藤を感じた時に、何の罪もない犠牲者の存在がちらつき、映画の意図とは違う何かを感じてしまうだろう。

 

 それは怒りかも知れないし、シラケかも知れない。

 そうあると、映画が示そうとするカタルシスを正しく得られない訳で。 

 

 もちろん、原爆を扱うのは不謹慎だとか、戦勝国側の視点だから歪んでいるとか、そんな感情がまったくない訳じゃない。

 ただ、その流れで語ると、最終的に歴史的事実だとかプロパガンダだとか、不毛な話になる訳で、そういった話は、僕的にはどうでもよくて。

 

 結局、加害者側の苦悩見て、理解してと言われても、被害者側は困る。

 これにつきるのかも。

 

 ただ、歴史の不条理として、彼らは、むしろ被害者だとの認識を持っている事が、そうさせてしまうのも分かっているし。

 古今東西、勝者が歴史を作るのは当たり前だから、

 これも仕方ないと思うけれど、それでも、勝者の苦悩とか片腹痛いとも思ってしまう。

 

 それを語ろうと思った時点で、そのオッペンハイマーの苦悩を穢してしまうのではないかと。

 きっと彼は、ボクはこんなに葛藤し苦しんだんだ、ボクの真摯な姿を見てくれとは言わなかっただろう。

 

 そんなことをすれば、彼の真実の贖罪の気持ちが、穢れてしまうし、

 僕たちは、なんだか原爆投下の言い訳を聞かされているようで、当然快くは思わない。

 

 

 僕は、戦争被害にあったわけでもないし、親族が原爆被害にあったわけでもない。

 そういう意味では、僕は、ただ感傷的なのかもしれない。

 

 罪や恨みを水に流す日本の文化は、僕も、高潔で素晴らしいだ事だと思う。 

 でも、このような事を一切感じずに、オッペンハイマーに感情移入できるのも、どこかおかしいと思ってしまうんだよね。

 

 

 ふう。

 この文章を書いている内に、なんだか知りたくない癖に気が付いてしまった。

 それは、僕が、憐れな弱者に強く感情移入してしまうと言う事。

 

 つまり、それは、僕がこの社会で同様の存在だからなのだろうなぁと。これも感傷的になる大きな要因だよね。

 

 

 最後に。

 

 僕は、この映画を見ていない。

 それなのにしたり顔で語ってごめんなさい許してください反省してます。

 もし、映画が全編喜劇のミュージカルアトミックショーだったなら腹を切らせていただきますやっぱり腹切りは痛いからデコピンくらいでおねがいします。