僕は、未だ空の青さを知らない

ネット空間の僻地で、生きている事の爪痕的な、僕の独善とした散文を綴る場所

すべからく男女平等という理想の毒

 平等、特に男女同権と言う、美しい理想。


 女性にも、男性に遜色ない能力があり、生産性がある事が、社会的な事実となった。 しかし、そこには厳然と性差があり、どちらにしても、性的な向き不向きが存在している。

 とはいえ、世の中を見渡せば、女性の権利、女性の地位の向上に血眼になりすぎて、本質が見えなくなっているように感じられる。
 女性の地位の向上にやっきになった挙句、何故か、男女の性差を排除しようとする、過激な思想が目立つ。

 

 確かに、社会の変化を考えれば、男女の平等、女性の地位の向上は、あって然るべきだと思う。

 

 だが、ただ乱暴に性差をなくせば平等になるだろう――との短絡的な考えが、また別の偏りを生みだしている。この問題は、もっと、もっと深く掘り下げて考えるべきだ。


 

 そもそも人間の性差には、生体的性差と、社会的性差がある。人は、その両輪をもって、繁栄してきた。

 

 特に、この社会的性差というものは、人間社会が進歩していく中で、繁栄に合わせて同時に適合遺伝していったものだ。つまり、そこに統計的最適解が詰まっている。
 短絡的な理想の為だけに、この社会性的性差を急激に変化させると、当たり前に人間の遺伝的質とかみ合わなくなる。

 人は10万年以上かけて、社会と性の適合を図ってきたのだから。  
  
   
 原始の世界、男性が衣食住を保証し、周囲の脅威から安全の確保する。その対価として、女性が男性の性欲求を解消させ、子を宿す権利を与えた。それが男女の性差として、釣り合った関係と子孫繁栄を作り出していた。

 

 女性は、男性が無条件に求める生体的な性的資産を持って生まれているが、逆に男性は、女性を養う等の、社会的性差の優位性で、釣り合うように出来ていると言う事だ。
 
 つまり、原始の初めからずっと女性は、その生体的な性差の優位によってパートナーを手に入れる事が出来たが、男性は、単純にそうではない。生体的な優位性もファクターではあるが、やはり社会的性差として、多くの力を示す必要があった。(無論、例外はある。)

 


 これが何を意味しているか、わかるだろうか。

 


 現代の社会を見渡せば、法治の約束事によって安全性が大きく担保された。さらに、女性一人でも男性並みに生活費を稼げるようになった。


 要するに、法治と革新性の高い先進国になればなるほど、男性の持つ社会的性差の優位性が、大きく失われてしまった事になる。
 男女のギブアンドテイクだった関係が大きく崩れてしまった。

 

 にもかかわらず、遺伝子的な本質本能はまだ、古来のままの為、女性は男性に自分の生産性以上の包容力を求めてしまう。


 元来、性資産を持つ女性が、稼ぎ、社会的な優位性まで強め始めると、自分の価値が、更に高まり、同じ程度の稼ぎの男を選ぶ必要性が薄くなる。
 結果、男女の能力にさほど差はない、男女平等だと言いながら、理不尽にも男性に、女性を大きく上回る有能さが必要だと押し付けてしまう様になる。とどのつまり逆差別が起きる。
 
 理想と本能の歪みがここにある。 

 

 この先、男女平等、女性の社会進出が捗るほど、相対的に男性の収入(魅力)が目減りする。そしてそのヒエラルキー中央以下に存在する多くの男が、パートナーを得られなくなる歪を生む。


 つまり必然的に、多くの女性が、ヒエラルキーの高い少数の男達に群がり婚期を逃し、上手くいったとしても、その男たちにとっかえひっかえ(離婚再婚)される事を、繰り返して老いていく事になるだろう。

 そして、多くの男は、女性に相手にされないまま、孤独のまま死に行く。特に、経済の低迷する現代日本では顕著になる。

 
 男社会に差別されている被害者だと嘆きながら、その傍ら、多くの健全な男性群を、無意識化で差別し続ける――と言うわけだ。

 

 その果てに、彼女たちの大切な子孫の男たちもまた同様に、多くが孤独死を迎えるようになるとは、彼女たちは思いもしないだろう……。

 

 すでにもう、私たちの社会は、その不幸な流れに差し掛かっているのではないだろうか?

 

 いつの世も、我々の能力を超えたまばゆい理想に手を伸ばすと、大きな影が、また我々を覆う。歴史がそれを示している。 

 

 私たちが夢見る、美しい理念。高速に変わって行く社会の変化。それは、人間性の真ん中にある本能と、絶望的にまで乖離している。
 人は自分たちを過大評価する癖があるが、その実、原始的な性質に支配されていることに変わりがない。

 

 私たちはバランスの悪い知能を持った、プライドが無駄に高い原始的なアニマルだ。

 

 皆が、その自覚を持てるようになるなら、謙虚さをもって、本当の男女平等を成し遂げられる日が来るかもしれない。

 淘汰される側の僕としては、きっと、そうなってくれると期待している。