僕は、未だ空の青さを知らない

ネット空間の僻地で、生きている事の爪痕的な、僕の独善とした散文を綴る場所

静けさを楽しむ日陰の穴場

 暇だったんで、外で静かに本を読めそうな場所を探してて、いいスポットを見つけた。

 

 ある川の橋の下の日陰なんだけど、交通量の多い場所で、駐車場が埋まる程度の、大きな公園の側なのに、誰も通らない。

 

 携帯椅子一つで、静けさを楽しめて、良い穴場かも。

 

 

 ついでに、軽いご飯も買ってきた。

 近所の業務スーパーにあった、200円程度の激安のあさりのパスタ。

 

 温めたら、そこらのランチよりも、おいしいかもってレベルで、付加価値とは、なんなのだろうと考えさせられる。

 

 そこそこ街中にある、スキマスポット。

 川のせせらぎと涼しい風の中で、本を読んだり思索したり。

 

 こんな事でも、楽しもうと思えば楽しめる。

 

 こうやって過ごしていると、
 楽しい事ってのは、高級さとか豊かさとか以外にもたくさんあるなあと、思える。

 

 今の僕は、社会の普通から外れていて、そこに焦点を当てると不安しかないけれども、誰も来ない静かな場所で、こうやってゆっくりしたり、一人で内省する時間が持てている。

 

 これは、僕にとっての幸福の為に、本当に必要な時間なのだと思う。


 傍から見ると、橋の下でたそがれる見すぼらしい僕は、不幸に見えるかもしれない。
 でも、実際の所、この瞬間、僕は幸福感を得ている。

 

 今、世の中を見渡すと、たくさんの豊かさが溢れていて、
 幸福そうな社会に見えていても、結局、多くの人間が不幸の影に追われて生きているようにみえる。

 


 その根底にあるのは、

 沢山の豊かなモノが、そこら中にあって、それが幸せだと感じてしまう人の癖だ。

 

 そのせいで僕たち人間は、否応なく、外側に意識を連れて行かれてしまう。

 でも実のところ、そこには、終わりのない不足感の連鎖しかない。


 結局、一時幸福を感じられても、次の高級なモノ、次の豊かな生活に引っ張られて、どうしようもなく不幸を感じてしまっている。


 幸福とはなんだろう。


 この日こうやって数時間、橋の下でたそがれている途中、鳩数羽が降りてきて、僕の足元をペトペトと歩き回り、くるっぽくるっぽと、仲睦まじくじゃれ合っていた。


 彼らは、ぴったりくっついて毛づくろいして、

 僕は、ぽかぽかと優しい気持ちになりながら、鳩さんかわええのぉ、かわええのぉと呟いていると、

 だんだんと群れてきて、十羽程度の鳩に囲まれてしまった。


 なんだこの状況?

 

 餌を求められるでもなく、僕を空気の様に扱って、テトテト歩き回る鳩さん達。

 かわええけど、少し怖い。

 

 僕には、人としての覇気が足りないのだろうかと、少し凹んでいると、不意に二羽を残して、悠然と飛び立っていった。

 その残った二羽は、目の前で、くちばしを重ね合って仲睦まじく愛を語り合っている。嫌でも目に入る。

 

 なんなの見せつけちゃってるの?


 この鳩野郎がよ。いや、鳩バカップルがよー!


 僕が、心の中で悪態をついたとたん、最後に残った、こしゃくなツガイも、羽をばたつかせながら、逃げ去って行った。

 

 なるほど、これが覇気なんだなと、思ったね! ざまあ!

 


 えっと、

 つまり、何が言いたかったかと言うと、

 

 鳩さんが外敵足り得る僕をスルーして、至近距離でわちゃわちゃ遊ぶように、

 僕たちも、こう生きる事が幸福なんじゃないかって思う。


 幸福に焦点を合わせれば幸福、不幸に焦点を合わせれば不幸。不幸の中にも幸福は存在する。

 結局、幸福ってのは、外側ではなくて、内側にこそあるんだよね。

 


 最近になってやっと、それが腑に落ちた。

 


 幸福を感じるのは心なのだから、それは精神から発する訳なのに、

 社会が高度化するほど見えなくなり、その精神性が、過小評価されてしまいがちになるのは虚しい事だなと思う。

 

 この思考の本質は、社会から外れて落ちぶれた、その大きな負荷がないと、僕には学べなかったって事で、これも不幸の中に幸福があったって事なのかもしれない。


 もう少し成長した僕なら、世間で言う不幸な死を迎えたとしても、笑って逝けると思う。

 

 幸不幸は、結局、自分の心次第って事さ。

 

 

 ああ、なんか、小公女セーラ見て、むせび泣きたくなってきた。いや、この流れは、愛少女ポリアンナ物語でも見て、良かった探しの練習するべきだろうか。

 

 昔あったアニメ名作劇場は、最高の情操教育かもしれぬ。