年齢を重ねて、僕は死を身近に感じるようになった。
これは、辛い事でもあるけど、僕の中では、思考の転換に繋がっている。
僕は毒舌だったり癖あるけど、本質的には控え目な性格で、どんどん前に出たり、他者を押しのけるが苦手だった。
密かな座右の銘は「能ある鷹は爪隠す」で、一生隠し続けている、そんな生き物でもある。
ここで文章を書いていても、自分を隠している感が抜けない感じで。
だけど、おぼろげだった終わりのイメージが、クリアに見え始めると、もういいかなと思える。
このまま静かに塵になるのと、オラオラと飛び出して着地失敗で天に召されるなら後者の方が、なんか達成感があるだろうと。
僕自身、色々と歪だなぁと思えるけど、でもこれは僕だけでなく、現代社会、特に日本社会の問題でもあるのだろうと感じるんだ。
僕みたいな人間はきっと、日本に沢山いる。
人間の生存本能の根源って、「頑張って生きなきゃ」「まだ、死にたくない」
これに集約されていて、この感情、感覚を正しく身に着けるには、正しく死を感じなければいけない。生の尊さを感じなければいけない。
なのに、僕らの社会は人の死を、見えないようにひた隠しにする。
死だけでなく、生命の根源である、性すらも隠す。
そんなことをしたら、生きる事を迷うにきまっている。
そもそも生きる意味なんてのは、当たり前の事で、論理立てて考えるようなモノではない。
いとも簡単に人は死ぬ。
ムシコロの死体と同じように、人の死体が日常にあり、それをみんな怖がるのではなく、みんな死ぬよね――だから明日も頑張ろうねと、カラリと言える環境があって――。
だから、一生懸命生きて、前のめりに一杯セックスするんだよと。
こう、命を性を自然に表現していれば、心の根っこに感性的に出来上がるモノなのだろうと。
そうあれば、真っすぐな生命力を宿せるのだろうと。
そんな社会なら自殺者も減るし、幸福度も上がる。
チャレンジ精神の地位は向上するから、失敗責任も軽くなる。しょうもない事で辞任しなくなる。
その代わり、愚か者は爆増して、社会不安は増えるだろうけど、その程度の些細な事とネガティブに受け止めなくなるでしょ。
でも、そっちの方がきっと幸福な社会なのだろうと僕は思うんだ――。
ああ。今、ふと記憶がよみがえった。
学生時代、夢は何かと聞かれた時、僕は担任に「サラリーマン」と答えた。
担任のギョッとした顔も思い出せる。
その頃から僕の心はどこか冷めていたのかもしれない。
もっともっと愚かな夢を語ればよかったなぁ。なんてね。