僕は、未だ空の青さを知らない

ネット空間の僻地で、生きている事の爪痕的な、僕の独善とした散文を綴る場所

愚かさは賢さに勝るやで

 愚かさは賢さに完全に勝る。


 これが僕が今、やっと到達した境地。もしかしたら、今頃気が付いたの?と笑われるのかもしれない。
 でも、それが僕の愚かさだとすれば、これも僕の良さじゃないだろうか?

 だから、これから書く文章も、僕の心からこぼれる支離滅裂で雑な文章でいいと思って書き始めている。

 そうであれば、頑張って必死に理性的にまとめるよりも、他者の心に響くだろうし、僕も楽しく、気持ちが良い筈だ。そう思う。

 

 話を戻すが、

 僕は、半世紀生きてきて、実体験から見る狭い世界、広い視野で見る社会の矛盾などを見て、今は愚かさのしたたかさを強く感じている。

 でも、僕の人生の大半は、ずっと賢くありたいと願い、愚かさを憎んできた。
 その結果、社会に馴染めず、自分の中にある愚かさをも憎み、ずっと苦しく生きる羽目になった。


 個人の理想や都合とは関係なく、世の中は愚かさに塗れている。というよりも、人間の本質が愚かさと呼ばれる愛嬌から生まれている――と言う事なのだろう。

 

 だから、愚かとは、今、僕の中では誉め言葉になっていて、半世紀掛けてやっと、その当たり前の事が腑に落ちた。

 そして、やっと、愚かさを前面にだそうと動き始めた。
 もちろん、よちよち歩きだが。

 

 思い返せば、僕の崇拝していた賢さが、僕の楽観性や言動行動を削ぎ、人間的な包容力や優しさを自分の中に、押し込んでしまっていたのだと思う。
 その結果、中途半端に賢さに偏った僕の冷たい言葉は、誰の心にも届かない。

 問題が起きた時に、ほら僕の言ったとおりだと高飛車になるだけで、誰も受け入れない。そして、その事でさらに愚かさを、世の中を憎む。その悪循環だ。

 

 そんな中で、僕が賢さを正しく生かす為には、俺の答えが正しい、お前ら俺の言うとおりにしろと、リーダーシップをとるか、自分一人で無謀に突破するしかなかった。
 方向性を変えれば、道化となり愛嬌を武器に、意見を通すとかの方法もあっただろう。

 どちらにしても、愚かさに通じる行動をとるしかなかったと言うわけだ。

 

 賢さとは、つまり愚かしさの下位にあって、愚かしさがありきで、そこから賢さが生きる。
 愚かしさが人間の本能、生命力で、愛や情の根源であるのだから、今考えてみれば至極当然だ。


 それは、人間が前進する原動力であり、時に、包容力や魅力にもなる。

 

 当然、愚かしさは下らない争いも起こすし、他者の尊厳を奪い取る暴力をも生み出す。
 だが、それは、本能という愚かしさの副産物にすぎない訳で、人間的な生命力である愚かさを全否定する事こそが愚かなのだと。

 

 いや、愚かさが美徳であるなら、愚かと言ってはダメか?
 まあいい。

 

 だから、あなたも僕も、馬鹿でいいのだ。愚かでいいのだ。変態でいいのだ。
 失敗して嫌われて、また、へらへらとやり直せばいいのだ。

 

 愚かさは、成長へとつながるし、愚かしさは、幸福に生きるための武器になる。

 

 誤字脱字上等。
 さあ、愚かになろう。次はもっと愚かで楽しくやろうか。