僕は、未だ空の青さを知らない

ネット空間の僻地で、生きている事の爪痕的な、僕の独善とした散文を綴る場所

優劣と功罪は、ただ人の業によって作られる

 僕たちは、生まれ持った個性の中の良い部分で、優越感を覚えたり、他者に称えられる。その反面、個性の悪い部分を、卑下して恥じて、隠して生きていたりする。

 なら、生まれ持った個性の良い部分と、普通の部分、悪い部分はどう決まるのかといえば、当然、人のコトワリの中のモノサシが、優劣を決めている事になる。


 だが、そのモノサシが常に正しいかと、問われれば、きっと多くの人が違うと言うだろう。 

 

 

 例えば日本社会では、空気の読める奥ゆかしい協調性のある人間が良いとされ、海外では、独立心の強い唯我独尊な人間が、リーダーシップがあるとして持てはやされる。

 海外では、日本人の美徳とする気質は、弱さや愚かさと見られ、悪い個性として見られる事も多い。

 そのような違いが、誤解や不和を呼び、先の戦争を加速する一つの要因にもなった事は否定できない。

 

 もっと根深い例を出すなら、

 現代では、障碍者や同性愛者は、社会の理解を得られるだろうが、少年性愛者は忌み嫌われる。

 だが、時代をさかのぼれば、日本では色小姓などが公に存在しており、少年性愛者は文化として許容されていたが、その当時は障碍者が、忌み嫌われた。

 

 それら性的な嗜好や、偏りを持つ個性は、多様性として、我々の中に最初から存在している。であるのに、後付けの価値観によって、良し悪しを植え付けられたにすぎない。

 歴史や世界を広げて、世の中を見渡せば、そういった矛盾は、枚挙にいとまがないだろう。

 

 さらに功罪についても、人のコトワリは、同様にあやふやだ。

 

 戦争で多くの人間を殺害すると英雄となり。

 テロリズムも、立場が変われば聖戦となる。

 権力者の悪行は罪を逃れる事があり、貧者にはそれがかなわない。

 敗戦国は、架空の悪行を擦り付けられ、戦勝国が行った虐殺は、正義の行いと正当化される。

 

 人のコトワリは、何時だって矛盾を抱えているものだ。

 

 全能の神が居たとして、こうも矛盾する人のコトワリと、神の意志が一致していると考える事が、どれだけ非論理的な思考なのか分かるだろう。

 だからと言って、どんどん法や価値観、道徳観を捨てろと言うのではない。それでは、ただの畜生と同じだ。

 

 つまり、貴方の持って生まれた個性や素質や、不覚にも犯した過ちなどで十字架を背負った時に、過剰なまでに苦しむのは、非論理的で、本質的に間違っていると言いたいのだ。

 

 混沌と呼ばれる神は、背負った罪で、貴方に罰など決して与えない。それを与えるのは、結局のところ、世間であり人のコトワリだ。

 

 無論、犯した罪で、被害者には当然恨まれる。一生許されない事もあるだろう。

 だが、それはそれだ。自覚反省できたなら、前を向いて生きて行けばよい。もし、それが大罪であったとしても。

 

 あるいは、貴方が、変態で不細工で愚かに生れ出たとして、それを疎むのも、また人だ。あやふやな一過性の価値観でしか物事を見る事ができない、人間という生き物の所業だ。 
 結局、貴方を苦しめているのは、矛盾を抱えた人のコトワリに洗脳された貴方と世間だけでしかない。

 

 人のコトワリの上位にある、混沌と呼ばれる神は、人が考えるような分かりやすい形で、貴方を疎んだり、罰を与える事などないのだ。

 

 だからこそ、人のコトワリから理不尽な扱いを受け、そこからこぼれてしまった、不運な貴方が考えるべきは、貴方を苦しめるすべての観念が、本質的には、ちっぽけなものと理解する事。

 

 そして、過剰な枷を捨て去り、ただ貴方の中にある貴方だけの宝石を、ただ磨いて行く事が、本質である多様性と混沌的な広い視野で捉えた世の中での、誠実な生き方となるのだと思う。