僕は、未だ空の青さを知らない

ネット空間の僻地で、生きている事の爪痕的な、僕の独善とした散文を綴る場所

取っ散らかった心が僕にブログを書かせる

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 改めて考えてみる。

 僕は、何のためにブログをやっているのだろう。

 

 切っ掛けとしては、小銭を稼ぎたいとか考えたのかもしれない。

 でも、それならもっと、飾り付けたり分別したりして、内容ももっと社会とつながりやすいモノを選んだはずで――。

 

 序盤の下らない文章群を見ると、ただの気まぐれな暇つぶしだったのは間違いない。

 そこから趣旨が変わって、この社会での生き辛さを、論理的な思考で考察する内容に変わって、そちらがメインになっていって――。

 

 このお題の為に、今読み返してみると、僕の書いた多くの文章の内容は「あなた」と言う読者に、手を差し伸べ助言する形で表現してはいるけれど、結局、「あなた」とは僕自身なんだと感じられる。
 ざっくり言ってしまえば、自分が生きるための希望、生きていて良い理由を探しまとめていた――と言う事になる。

 

 とは言っても、もし同じ苦しみを持つ人が居て、たまたま、この僻地までたどり着いてくれたなら、その人を元気づけられる。そんな下心も当然あって――。

 普通、他者に見てもらう為にあるのがブログであるのだから。


 僕が書き散らしているブログの文章の殆どが、理不尽に胸かきむしる思いをしている人や、上手に社会で立ち回れない人に向けての内容。

 前述の通り、それを自分に向けて書いている。


 つまりは、僕は、社会的な弱者側で苦しい立場にずっといますと自分で、告げているに等しい。

 

 こう書くと、なんて自分は痛々しい事をしているのだろうと思う。

 お前は、境遇を餌に、同情を得ようとしているだけだよと、もう一人の自分が毒づく。

 

 でも、底辺でのたうち回る僕は、事実、他の人よりも、間違いなくそこに共感できる訳で。
 それはある意味、個性であり優位性であり、存在意義でもあるのだと思う。

 

 確かに、僕の書く内容のレベルは多分、知識人と呼ばれる人たちには、常識程度のよくある論理で出来ていて、人によっては陳腐な内容と吐き捨てられるかもしれない。

 

 それでも、僕自身には役に立っている。だからきっと、無駄じゃない――。


 そう思う事で、僕は、やっと、このブログをのそのそと続けられている。

 

 


 世の中には、邪推もせず、ただ自然に両の腕を空へと広げ「自分を見て」と言える眩しい人たちがいて、彼らは今まさに輝き続けている。

 

 そのすぐそばで、僕はウジウジと、どうしようもなく後ろ暗い気持ちで、こんな気色の悪い文章を、書き流す。

 

 ――情けないのは分かっている。

 

 それでも、いや――、だからこそ、

 アドラー的に、世間に必要とされるかは世間に任せて、ただ、暗めの取っ散らかった独白を、あとは野となれ山となれと、今日は投げつける事にしたい。